小林 裕彰(こばやし ひろあき)プロフィール
1.優しい世界の中の歪みの中で
どこまでも田んぼが広がる、岡山の片田舎にある古い日本家屋が私の家でした。
その家で、沢山の愛情を受け、すれ違いと、理不尽さを目にしながら、私は育ちました。
絵を描くことが、大好きな子供でした。
いつも祖母が用意してくれる、新聞に挟んであるチラシの裏が、私のスケッチブックでした。描いた絵を母に見せると、「すごいね、上手だね!」と、いつも褒めてくれました。
絵を描くのに飽きた頃、祖父と、飼っていた牛と散歩に出かけました。
すぐ隣に牛の大きな体温を感じながら、空を見上げ、雲の形を追いかける。
笑ってしまうほど、絵に描いたような穏やかな日々でした。

けれど、その穏やかな日々は、痛みと引き換えに成り立っていました。
私の家には「男尊女卑」という思想が、家の柱のように、どっしりと存在していました。
三つ上の姉は、決して勉強が得意なタイプではありませんでした。むしろ、少し不器用で、おっとりとした性格。でも、家の空気はそれを許しませんでした。
「女の子なんだから、もっとしっかりしなさい」
「お前は本当に頭が悪い」
同じ失敗をしても、私は許され、姉は罰せられる。その理不尽な光景を、私はただ、息を殺して見ていることしかできませんでした。どうしようもない申し訳なさが、日々募っていきました。
そして、もう一人。確実に心をすり減らしていたのが、母でした。
母は、週5日、役場で契約社員として仕事していました。それに加え、家族全員の食事、洗濯、掃除という家事のすべてを、たった一人でこなしていました。
休みの日も、休む暇などありませんでした。
にもかかわらず、祖父母からは「田んぼと、畑を手伝わない」と、絶えず、責め立てられていました。週5で働き、家事を完璧にこなし、その上、広大な農作業にまで手が回るはずがありません。しかし、その当たり前の理屈は、そこでは通用しませんでした。
目の前を飛び交う冷たい言葉。悲しそうな横顔。冷ややかな視線。疲れた背中。
そのすべてが、私の胸を締め付けました。
私は、父に憧れていました。
父は、岡山市内のデパートに勤め、朝は私たちが学校に行った後に起き、
夜は私たちが寝静まった後に帰ってくる、すれ違いの生活でした。
だけど、休日に、ビッとスーツを着こなし、職場に向かう父は、
私にとって「かっこいい大人」そのものでした。
でも、その父は、家のことになると一切の沈黙を守りました。
母がどれだけ心を込めて作った食事でも、父は黙って食べ、黙って席を立ちました。
「美味しい」の一言も、「ありがとう」の一言もない。
食後の食器を、父が流しに運ぶ姿を、私は一度も見たことがありませんでした。
祖父母が母を理不尽に責めている時も、父はただ、黙ってテレビを見ているだけでした。
父の沈黙、それが私にとって最も辛い出来事だった気がします。
この家から母を連れ出してあげたいと、本気で願っていました。
2.幸せな家族であるための、自分の役割
母を、この家から連れだしてあげたい。だけど、幼い自分にそんなことができるはずもありませんでした。その代わりに、この壊れかけた家族関係を少しでもよくしようと努めました。
祖父母の部屋へ行き、他愛のない世間話に付き合いながら、戦争の話、若かった頃の自慢話に、ただひたすらに耳を傾けました。
「裕君は、本当によく話を聞いてくれるねぇ」
祖父母の機嫌が良くなるたびに、安堵しました。そして、上機嫌になった祖父母の話の中で、ほんの少しでも母へのポジティブな言葉があれば、それを母の元へ届けました。「お母さんのこと、褒めてたよ」と。
また別の日は、母の部屋へ行き、仕事の愚痴、祖父母への不満を、ただひたすらに聴きました。近所のおじさんが、
「あんなに出来た嫁さんはおらんよ」と母を評価してくれた時は、その言葉をすぐに母に届けました。「お母さん、すごいね」と。
そうして、母の心に穏やかさが戻ることを祈りました。
家族間の誤解を解くことにも、努めました。
例えば、祖父母が「あいつは遊びに行っている」と母の愚痴を言えば、さりげなく母から事実を確かめ、「買い物に行ってたんだって」と祖父母に伝えました。
家族のみんなが私には、惜しみない愛情を注いでくれていました。みんなのことが大好きでした。母も、祖父母も、父も、みんな、優しい。ただ、すれ違っているだけなんだ。不器用なだけなんだ。
だから、誤解さえ解けばいい。そうしたら、みんなが心から笑い合える。その願いが、私の原動力でした。

しかし、その一方で、私は自分の「本音」を、隠すようになっていきました。
大好きだったキン肉マンのゴム人形(キン消し)遊びも、近所の人が家の戸をガラガラと開ける音がすると、サッと隠してしまう。男の子が人形で遊ぶのは「おかしい」と思われるかもしれない。
自分の「好き」を表現することよりも、自分が変だと思われること。
そのせいで、母が責められること。
それを避けることを、一番に優先しました。
人の感情や関係性を観察し、その場その場で期待される「役割」を演じる。
そのために、自分の本音に蓋をする。
それが、幼い私が身につけた、この世界で生きていくための術でした。
3.理不尽の渦中でもらった父からの言葉
これまで蓋をしてきた私自身の「痛み」と、世界の「理不尽さ」に、向き合わざるを得なくなったのは、思春期の頃でした。
中学時代、「いじめ」を経験しました。学校でも家庭同様、空気を読もうとしていたせいで、調子が良い奴と思われたのかもしれません。無視や仲間外れをされるようになりました。
「いじめられたくない」。「強く」見せなければならないと焦りました。
強いと認識されている同級生を真似て、ボンタン(太い学生ズボン)を履き、タバコをふかすようになりました。
いじめられることもなくなり、安堵しました。
だけど、安堵は長くは続きませんでした。まもなく、母に喫煙が発覚しました。
ここでも、私は自分の痛みに蓋をしました。
いじめられていたことも、解決する手段として喫煙を選んだことも、誰にも言えませんでした。
憐れまれることも、心配されることも、望んでいませんでした。そして、「どうせ誰にも理解されない」と諦めていました。
それでも、母の涙と、胸を締め付けるような痛みは、それからずっと、今もまだ、消えることはありません。
その当時から、パンクロックに夢中になっていきました。
全てを壊すような激しいビートと、社会への不満を叫んでいる歌詞が、唯一の慰めでした。
文化祭のステージで、裸にネクタイという奇抜な姿でギターをかき鳴らしたのも、そんな不器用な自己表現の一つでした。「見てくれ、これが俺だ!」と叫ぶように演奏しました。
だけど、自分が何者なのか、どうしたいのか、全く分かってはいませんでした。
家にも学校にも、安らげる場所は見つけられないまま、中学時代を過ごしていきました。
そんな中、唯一私が打ち込んだものが、部活動の野球でした。
一日も休むことなく、毎日日が暮れるまで、練習に励んでいました。
中学最後の試合、卒業生の思い出作りのために、近隣の中学との試合がありました。
その日、バックネット裏に、いるはずのない父の姿がありました。休日こそ多忙なはずの父が、日曜の試合に応援に来てくれるなんて、奇跡に近いことでした。
ずっと憧れだった父、その父に、活躍する姿を見せたい。そう思いました。
試合は進み、一人、また一人と、同級生がグラウンドに送り出されていきました。私はベンチの最前列で、祈るように、自分の名前が呼ばれるのを待っていました。
しかし、名前が呼ばれないまま、最終回を迎えました。私以外の17人の同級生は、既に、全員が試合に出ていました。結局、私だけが、最後まで打席に立つことはありませんでした。
試合終了のサイレンが鳴り響いた時、私の中で何かが崩れ落ちました。監督の顔を見ることもできず、私は駐車場で待つ父の車へと、一人とぼとぼと歩きました。
車のドアを閉めると、父は何も言わず、静かに車を発進させました。
窓の外を流れる景色を見つめながら、悔しさと、怒りで、体が震えました。
そして、忙しい中、わざわざ見に来てくれた父に対して、申し訳なさと、情けなさが押し寄せてきました。気が付くと、目から涙がこぼれていました。もう止まりませんでした。
子供のように声を上げて泣きました。肩を震わせ、しゃくりあげました。
父は、そんな私を一切見ることなく、ただ前を向いて、黙って運転を続けてくれました。
私の涙が少し収まった頃、父が、ポツリと言いました。
「……お前は悪くない」
ぶっきらぼうで、飾り気のない一言。だけど、その言葉に、私は救われました。私の努力も、悔しさも、怒りも、全てを丸ごと肯定してくれたように感じました。
4.情けない父と、恩師と、情けない自分と…
野球部を引退後、絵を描くことだけが、私のアイデンティティになりました。
絵を描くことは、物心ついた時から、褒められ、家族の笑顔をつくってきた大切なものでした。そして、沢山の感情に蓋をし、言葉を飲み込んできた私にとって、唯一の表現方法でもありました。
美大に進学し、何かを表現する仕事に就く。それが、私が胸弾ませることができた、たったひとつの未来図でした。
しかし、岡山工業高校のデザイン科の受験に失敗。行きたくもない地元の高校に進学することになり、激しく落胆しました。
追い打ちをかけるように、ちょうど、その頃から、憧れだった父にも、影が差し始めます。
中3の時、父が勤めるデパートの業績が悪化しはじめました。父は長年、勤務していたアパレル(衣料品)部門から食品部門へと異動させられました。
「やっぱり、洋服の仕事がやりたいな」
異動から数日後、父は、ささやくようにそう言いました。そして、私が高1の時、デパートはついに倒産。父は失業しました。
多忙で、たまの休日にしか会えなかった父。いつも、スーツをビシッと着こなし、かっこいい大人の象徴だった父。その父が、職を失い、平日の昼間から、家でパジャマ姿で過ごしている。その姿を見た時の衝撃と失望感は、高校受験で失敗した時以上だったと思います。
その後、父は、街の有力者だった祖父のコネで、社会福祉協議会に再就職しました。アパレルがやりたいと言っていた父が、全く畑違いの仕事に就いたこと。仕方ないことだったかもしれませんが、憧れていた分だけ、それもショックな出来事でした。
さらに、父は「こんなことやりたくねーわ」と愚痴をこぼしながら、その仕事に通い始めたのです。
ダサい…心の底から、そう思いました。あんなにかっこよかった父が、情けない姿になってしまったことに、心底、落胆しました。
だけど、同時に、父もまた私と同じように、夢を諦めざるを得なかったのかもしれない。そう思う気持ちもありました。それがなおさら、私の自己肯定感を下げていきました。
中学の時のトラウマを抱えていたのもあり、また、進学した高校では軟式しか野球部がなかったこともあり、高校では野球をやるつもりはありませんでした。だけど、なぜか、高校は部活への入部が義務付けられていました。私は、渋々、軟式野球部に入部しました。
だけど、そこで、恩師となる佐伯先生と出会います。
4浪して30歳で教師になったという佐伯先生は、「全国大会出場」という、誰もが「そんなの無理だ」と笑うような目標を、真顔で、一切の迷いなく語り続けました。
佐伯先生は、毎月、自費で、手書きで、新聞をつくって、勝手に生徒に配っていました。

「下を向いてる暇なんてねえよ」「腐ってんじゃねえよ」「若者よ、でかい夢を抱け」。
新聞に書かれた言葉は、ずっと聴き続けていたパンクロックの歌詞のように、私の心に突き刺さりました。
その圧倒的な情熱と、生徒の可能性を信じ抜く姿に、心震えました。
その佐伯先生から、信じてもらったことで、私は生まれて初めて「人に必要とされる喜び」を知りました。
それから取り憑かれたように、野球にのめり込んでいきました。それは、過去の満たされなかった思い、苦しみ、それらを払拭するかのような強烈な熱中でした。
「全国大会出場」
結局、その夢が叶うことはありませんでした。
佐伯先生への恩返しも、果たせないままで、再び、空虚感に押しつぶされそうになりました。
だけど、佐伯先生から教えてもらった夢を信じる力のおかげで、僕の中には、かろうじて燃え残る火種が一つだけありました。 それは再び、絵を描くこと、美大への夢でした。
中学受験でデザイン科に失敗してからも、私はその夢を諦めきれずにいました。
高校の間中ずっと、野球部の猛練習が終わった後、私はクタクタの体に鞭打って、片道1時間半かかる市内のデッサン塾に通っていました。
練習後の、往復3時間の道のりは、体力的にも精神的にも、決して楽なものではありませんでした。
けれど、その塾では、「上達しているから、心配しなくて大丈夫」と言われるばかりでした。一作品にかける時間が5、6時間を超えてしまうことに、最も不安を感じていた私に、「徐々にスピードもついてくる」程度のアドバイスしかくれませんでした。
技術的指導がなかったことが、私の不安をますます高めていきました。
このままで、本当に大丈夫なんだろうか…。不安は、徐々に大きな焦りへと変わっていきました。 そして、高3の夏。 最後の希望を胸に、私は倉敷芸術大学のオープンキャンパスへ向かいました。
その日、私は、これまで描き溜めたデッサンや作品を持ち、夏の蒸し暑い空気の中、額に汗を浮かべながら、夢のキャンパスの門をくぐりました。
目的は、教授が直々に作品を見てくれるという「デッサン批評会」でした。 自分の作品を見てもらう順番を待つ間、心臓は張り裂けそうでした。隣に並べられた、他の受験希望者たちの圧倒的に上手い作品が、ますます、心臓は激しく打ち鳴らし、私を萎縮させました。
それでも、私は祈っていました。
「佐伯先生が、私の可能性を信じてくれたように、この先生も、私の何かを見つけてくれるかもしれない」と。
「はい、次の人」

女性教授だったと思います。私の作品の前に立ちました。私は、震えながら、自分の作品の意図を懸命に説明しようとしました。だけど、間髪入れず、教授の口からは、ダメ出しの言葉が次から次に飛び出しました。教授の言葉は、私の自信を、私の希望を、容赦なく切り刻みました。
「このレベルじゃ、うちの大学は無理だ。」
そう言われているように感じました。
周りには、他の受験生も、その親たちもいます。その全ての視線が、私に突き刺さりました。
「ありがとうございました。」
かろうじて声を絞り出し、逃げるようにその場を立ち去りました。
「夢を追え」と情熱的に語り、自らの生き様でそれを示してくれた佐伯先生。
そのおかげで、私は夢を追い続けました。
だけど、夢は叶うことはありませんでした。
夢だった倉敷芸術大学を諦めた私に、母は、岡山県立大学のデザイン科を勧めてきました。
「あんた、県立大はもう受けんの?受けるだけでも受けてみたら。」
「県立大が募集はじまったらしいよ。」
恥をかくと思い込んでいた私は、母の言葉を拒み続けました。今になって振り返ると、母の中には複雑な感情があったのだと思います。
県立大にでも行けたら、おばあさんが鼻高々で親戚に自慢できるはず。そうなれば、自分への批判が和らぐとも考えたのかもしれません。
そして、何よりも、母自身が学歴がなかったから、その苦労を息子にはしてほしくないという想いがあったんだと思います。
母親はいつも言葉足らずで…。だから、私は愛情を感じ取ることができませんでした。だけど、実際は、愛情の塊だったように感じています。
そして、愛情表現が下手くそになってしまったのも、批判を受け続けた環境が原因だったのだと思うと、守れなかった父に対しての情けなさ、そして、何よりも、気付けなかった自分に対して、強い不甲斐なさを感じます。
「やりたくない」と愚痴をこぼしながらも、挑戦することもなく、現実を受け入れた父。
その父の血が、私に、濃く流れていることを思い知ることになりました。
5.追い求めて手にした、社会的成功の先にあったもの
大学の4年間、私はひたすら、無気力な日々を過ごしました。
なんとなく選び、進んだ大学で、何をすればいいのか分からず、入学して1ヶ月で「辞めたい」と親に告げたほどです。
心を閉ざし、友達も作らず、ただただ虚ろな4年間を過ごしました。
だけど、その4年間が、精神を回復させてくれたのかもしれません。それとも、無気力な自分にうんざりしたのかもしれません。
卒業後、社会に出た時、私の気力は、蘇っていました。高校の時まで、ずっと抱いていた「認められたい」という渇望と、「父のようにはなりたくない」という反発心は、これ以上ないほど高まっていました。
そして、その全てを仕事のエネルギーへと転換することができました。
特に、最初に就職したアパレル業界では、そのエネルギーが爆発しました。
私は、個人売上に異常なまでに執着しました。休日返上で働き、お客様一人ひとりの情報を徹底的に記憶し、提案をし続ける。
その結果、108ヶ月連続で個人売上予算を達成するという、会社史上、なかった記録を打ち立てることができました。
店長にも同期最速で昇進し、赤字店舗を次々と黒字化させ、「伝説の店長」とまで呼ばれるようになりました。
ずっと渇望していた「認められたい」という欲求、そして、揺るぎないポジションに辿り着いたことで、「父のようになりたくない」という願いは叶ったはずでした。
しかし、願いが叶ったにも関わらず、私の心は蝕まれていました。多くのスタッフが私のもとを去っていったからです。
ただ努力しているだけでなく、結果も出しているのに、なぜ?その答えが、分かりませんでした。
だけど、まもなく、その答えに気付く機会に恵まれました。
大型店の店長を任され、自分の売上だけでは、スタンドプレイだけでは、どうにもならない現実に直面したからです。
その時初めて、私は自分以外のスタッフを、じっくり観察した気がします。そして、そのおかげで、気づいたのです。
売上を上げる人間のおかげで、店が成り立っているわけではないことに。バックヤードで黙々と商品を整理してくれる人、掃除をしてくれる人、賞賛されることはなく、だけど、ミスしたら責められる、そんな仕事をやってくれている人達のおかげで、成り立っていることに…。
そのことに、感謝したことがなかったどころか、気付くことすらできなかった自分。全て、自分のおかげで成り立っていると思っていた傲慢な自分を、突き付けられました。
認められることをひたすらに求めた挙句、売上だけに囚われ、思いやりの気持ちをなくしていたこと。その痛切な学びは、私の価値観を大きく揺さぶりました。
それからは、全員に感謝し、ひとりひとりを尊重するように努めるようになりました。
だけど、会社から求められていたのは、売り上げをあげることでした。
ただでさえ、毎日、遅くまで働き、休日出勤は当たり前という働き方の中で、考える時間すら持てないことに、私は苦しんでいきました。
また、ちょうどその頃、娘が生まれ、家族との時間を大切にしたいという想いも手伝って、転職を決意しました。

転職先は、住宅販売の仕事でした。
その理由は、服を売るという仕事以上に、よりお客さんと、深く関われるだろうと思ったからでした。
だけど、そこで、私には、新たな葛藤が生まれました。
「この高価な家を売ることが、本当にお客さんの幸せに繋がっているのだろうか?」
「結果を出せ」「とにかく売れ」という売上至上主義の社風に、大きな違和感を抱き続けました。
お客様の笑顔の裏にある、人生の重み。
それを感じれば感じるほど、私は「売りさえすれば良い」という行為に、耐えられなくなっていきました。
その結果、私は人生で最も暗く、長いトンネルに入り込むことになりました。
売らないと、会社は存続できない。自分も生きていけない。
だけど、売るだけでは、人を幸せにできない。逆に、不幸にしてしまう時もある。
そのジレンマに苦しみながら、転職を繰り返しました。
向上心という言葉とは無縁の、無気力な会社に入った時もあります。
上司への媚びへつらいが横行する会社に、うんざりしたこともあります。
私は完全に心を閉ざし、自分を責め続けました。
「自分は、なんて無価値な人間なんだろう」
「何をやっても、結局ダメなんだ」
自己否定の言葉が、止めどなく頭の中を駆け巡り続けました。
通勤電車の中で、窓に映る自分の顔を見るのも嫌でした。
すれ違うサラリーマンたちが、皆、自分よりもずっと立派で、輝いて見えました。
彼らは、ちゃんと自分の居場所を見つけ、社会の中で役割を果たしている。それに比べて、自分は…。
「このまま自分が死んでしまったら、一体誰が悲しんでくれるのだろうか…」
最寄り駅のホームに立つたび、そんな虚しい考えばかりが浮かんでは消えていきました。
30歳を過ぎて、社会人として当たり前の「会社へ行く」という行為すら、とてつもなく重く、苦しい。息をするのも苦しい。そんな日々でした。まさに、絶望の淵でした。
6.目的は売ることか?それとも…
そんな私に、一つの転機が訪れます。 それは、営業の合間を縫って、新宿のブックファーストへ、新しい転職先になるFPの参考書を探しに行った日のことでした。
無数の本が並ぶ棚の間を歩いていた私の目に、ひときわ鮮やかな黄色い表紙が飛び込んできたのです。
『話すことが怖い でも一人にはなりたくないんだ』(今は『HSPサラリーマン』としてリニューアル発売されています)

そのタイトルは、まるで、誰にも言えずに心の奥底にしまい込んでいた、私の叫びそのものでした。著者の名前は、春明力さん。気づけば、私はその本を手に取っていました。ページをめくる手が震えました。そこに書かれていたのは、HSPやコミュニケーションに悩む人々の、痛々しいほどの、しかし、どこまでも誠実な心の声でした。
夢中でページをめくり、一気に読み終えた時、駅のホームで、人目もはばからずに、ただただ涙を流していました。
私は、その本を買い、救われました。
わかってくれる人がいると感じ、幸せを感じました。
幸せになるために、買い、幸せになることを経験しました。
だから、自分も…と願えるようになりました。

「幸せにするために、売り、幸せにしたい」
そのために道を歩き始めました。
FPとして独立する道を歩み始めたのは、アパレルや住宅営業の経験を通して、
「もっと人と深く、一生涯関われる仕事がしたい」と思ったからです。
FPは、お金という、誰もが向き合わざるを得ない現実的なテーマを通して、人の人生を長期的にサポートできる仕事。
これまでのように売ったら終わりの仕事ではなく、クライアントの人生に寄り添い、クライアントに幸せになってもらえる仕事。そう思っていました。
しかし、最初に入った会社で待っていた現実は、売上の9割が保険手数料というものでした。
「また、売りたくないものを、売らなければならないのか…。」
虚しさが蘇りました。心の底から信じられないものを、人に勧めることの苦しみを感じました。
その結果、全く売上が上がらない苦しい日々が続きました。
代理店からの借入金がかさみ、あと1ヶ月同じ状態が続けば、強制的に解雇されるという崖っぷちまで追い込まれていきました。
通帳の残高を見るたびに、これからのことを考え、ゾッとしました。
妻の不安そうな顔から目を逸らす、辛い日々を送りました。

「家族を守れないかもしれない」
その「お金の恐怖」は、再び私を「本来の自分」から引き剥さしました。
その結果、アパレル時代と同じ過ちを繰り返そうとし始めました。
いつの間にか、目の前の人の話を、真摯に聞くのではなく、保険を売るというゴールに向かって、相手の話を、コントロールしようとしていたのです。
7.売ることを考えなくなった先にあったもの
転機は、あるFPセミナーチームとの出会いでした。そこでの仲間からの「コバさん、中途半端にやるなら、はっきりしてほしい」という、厳しい言葉が、私の心の目を覚まさせました。
「自分は、何がしたいんだ?」「誰のために、この仕事をしているんだ?」
その問いに、私は、本当の意味で、真正面から向き合うことになりました。
悩みに悩んで、出した答えは、拍子抜けするほどシンプルなものでした。
「売上に執着したくない。目の前の人の人生に純粋に貢献したい。」
その姿勢を貫き続けた結果、案件数は徐々に増えていきました。
そして、セミナーに来てくださった一人の女性との出会いによって、その姿勢が正しいと確信を持つことができました。
「何を相談して良いか、分からないんです」と呟く彼女の口から語られ始めたのは、あまりにも壮絶な人生の物語でした。
夫からのDV、借金、不倫に耐え続ける日々、挙句に、癌の発症。
予定していた2時間の相談時間が過ぎても、彼女の話を聴き続けました。
言葉を探し、相槌を打ち、ただ、彼女の痛みに寄り添いました。
その1回の相談では終わるはずもなく、彼女の話を聴くためだけに、東京から宇都宮まで、3回も足を運びました。
交通費や時間を考えれば、完全に赤字です。売上だけを見たら、その行動は間違っていたのかもしれません。だけど、「この人の人生に、必ず貢献できる」。
その揺るぎない確信だけが、私を突き動かしていました。
3回目の面談の最後、私は彼女の目をまっすぐに見て、こう伝えました。
「私は、〇〇さんの人生に貢献する覚悟はありますが、〇〇さんは、本当はどうしたいんですか?」
それは、心からの言葉でした。その瞬間、私自身の自己肯定感が、高まっていくのを感じました。売上のためじゃない。相手のために行動し、伝えることができた。それは、私がずっと望んでいた自分の姿でした。
彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちました。そして、絞り出すような、しかし、凛とした声で、こう言ったのです。
「…本当は、離婚したいんです。」
彼女が、初めて自分の本当の気持ちに正直になれたことを感じました。
恐怖の中で、だけど勇気を振り絞って伝えてくれたことを感じました。胸が熱くなりました。
その言葉に、想いに、絶対に応えようと決意しました。
私は、彼女の資産運用だけでなく、ご両親の相続対策、さらには息子さんたちのサポートまで、三世代にわたって関わらせていただくことになりました。
「クライアントと深く、長い、一生涯の関わりを持つ」私がずっと抱いていた願いが、実現できた瞬間でした。
この経験は、私にとって特別なものでした。
そして、その後も、その特別は続いていきました。
8.美しい人達の中に見た、いつかの母と自分
ある方は、9年前にご主人と死別されていました。
面談に現れた彼女は、驚くほど穏やかで、柔らかな余裕に満ちていました。
私は、彼女が左手の薬指に指輪をしていることに気づきました。新しいパートナーができたのかと思い、おそるおそる尋ねてみると、彼女は、まるで少女のように微笑んでこう言ったのです。
「いえいえ、これ、主人との結婚指輪なんです」
9年前に亡くなったご主人から買ってもらった指輪だと幸せそうに話してくださいました。そして、来年の結婚10周年に、「主人だったら、きっとこれを買ってくれたと思うから」と、自分へのご褒美にネックレスを買うのだと、嬉しそうに話してくれました。
私は、言葉を失いました。愛する人を失うという絶望的な経験を、彼女は「悲劇」としてではなく、今も自分を支えてくれる「温かい愛の記憶」として大切に生きていました。
不幸や悲しみに囚われるのではなく、その中でどう幸せを見つけ、未来を描くか。そのしなやかな強さに、私は心を打たれました。そして、その幸せをより輝かせられる日々を送るためのサポートをさせていただいています。
また、ある方は、58歳で離婚を決意された女性でした。 元のご主人は、お医者様でした。世間から見れば、誰もが羨む「医者の妻」という立場です。
「なぜ、そんな恵まれた環境を捨てるのか」と、周りからは散々言われたそうです。
しかし、彼女の内面は全く違いました。
「お前なんかにできっこない。」
長年浴びせ続けられたモラハラの言葉が、彼女の自尊心を深く傷つけていました。彼女が望んだのは、お金や地位ではなく、ただ「自分らしく学び、成長したい」という願いでした。 「新しい場所で、新しい生活をしたい」。そう語る彼女の目は、不安と共に、新しい人生への希望に輝いていました。50代の終わりから、世間体という呪縛を断ち切り、「自分の人生」を取り戻そうとする姿に、激しく胸が震えました。
丁寧に、お話と想いを聴きながら、サポートさせていただいています。
またある方は、53歳で独身を貫く、生命保険会社の事務の女性でした。実家で暮らし、結婚経験もない。それだけを見れば、「かわいそうな人」と世間では判断されるかもしれません。しかし、実際に会った彼女は、私がそれまで出会った誰よりも「豊か」でした。
熱狂的に応援するサッカーチームの試合に、全国どこへでも駆けつける。全国の都道府県を制覇するという夢に向かって、目を輝かせる。彼女は、「結婚=幸せ」という世間の常識に、一切縛られていませんでした。自分だけの「好き」と「楽しい」を積み重ねていくことで、自分の人生を、自分自身の手で、カラフルに彩っていました。
そんな人生を、安心して楽しんでもらうためのプランを共に描き、携わらせていただいています。
彼女たちに共通していたこと。 それは、皆、自分の足で立ち、懸命に生きてきた女性たちだということでした。 独身の方も、離婚された方も、ご主人と死別された方も。
皆、それぞれの人生で、多くの困難や理不尽さと向き合いながら、歯を食いしばって頑張ってきた。その優しさから、周りに心配をかけまいと、笑顔で生きてきた。
でも、心の奥底では、不安を感じていた。
みなさん、心から尊敬する方達です。沢山の学びをいただける方達です。
そして、そんな方達から手を伸ばしてもらっていること、また、お役に立てることが、私の、決して揺らぐことない誇りとなっています。
そんな彼女たちの姿に、私は、かつての母の姿を、そして、理不尽さに耐えていた母の姿を、重ね合わせているのだと、ある時、気づきました。
週5で働き、家事を完璧にこなしながらも、誰からも感謝されず、報われないと感じていた母。
私は、ただ「離婚すればいいのに」としか思えませんでした。でも、それは違ったのです。母に必要だったのは、「離婚」という選択肢ではなく、その前に、その頑張りを丸ごと肯定してくれる存在だったのではないでしょうか。
そして、経済的な不安や世間体という呪縛から解放され、「自分の人生を、自由に選んでいいんだ」という「安心」だったのではないかと思っています。
幼い頃の私にはそれができなかった。母を、本当の意味で救うことはできなかった。
だから今、私は、目の前のクライアントに、かつての母に届けたかった想いを、届けようとしているのかもしれません。
「もう一人で頑張らなくていいんですよ」
「その頑張りを、私が知っています」
「もっと自由に、安心して生きてください」
「出逢えて、良かったです」
「伝えてくれて、嬉しいです」
「ありがとうございます」
そう気づいた時、私のこれまでの人生の、全ての点と点が、一本の線で繋がったような気がしました。
幼い頃、家族の円満のために走り回った日々。
父がくれた「お前は悪くない」という、たった一言の言葉。
佐伯先生が示してくれた「相手の可能性を信じ抜く」生き方。
挫けていた僕に、母が「伝え続けてくれていた愛情」。
アパレル業界で知った、表面的な成功の虚しさと、気付けなかった貢献の大切さ。
人生のどん底で見た一筋の光…。
すべてが、今のためにあったのだと。
私の人生の物語全てを活かして、他者の人生をサポートする。
それが、私がこの人生で成し遂げたいことなのだと、揺るがない確信を持つに至りました。
9.心から笑って、生きてもらえるように…
自信を失い、どうすればいいのか分からずに立ち止まっている人、
周りの期待に応えようと頑張りすぎて、
自分の本当の気持ちを見失い、心をすり減らしている人、
弱音も吐けずに、たった一人で戦い続けている人、
そんな人達のために生きたい。
私は、そう思っています。
「正解」を、代わりに用意することは、できません。
だけど、「共に歩む」ことはできます。
共に幸せに向かって歩くプロセスそのものが、
私自身の「喜び」であり、「生きがい」になっています。
心の声を、丁寧に、深く聴き続けています。
抱え続けている不安、言葉にならない葛藤、心の奥底にしまい込んだ、ささやかな願いに、静かに寄り添います。安心して、ありのままの自分を語れる「安全な場所」でありたいと、心から願っています。
「当たり前」だと思っている、日々のささやかな行動の中に、過去の苦い経験の中に隠された、かけがえのない「才能」、そして無限の「可能性」を、一緒に見つけ出しています。
そして、「本当に望む未来」を、一緒に描きだします。
具体的な行動計画を一緒に考え、そして、どんなに小さなことであっても「できた!」という成功体験を積み重ねていけるよう、全力でサポートさせていただいています。
そのために、お金の専門知識も、法的な専門知識も、コミュニケーションも、日々、磨き続けています。
迷ったり、立ち止まったり、予期せぬ困難に直面したり…、
そんな時、いつでも気軽に相談でき、共に考え、そして、再び前を向くための力を得られる、そんな「パートナー」であり続けるために…。
「自分の人生を、自由に選んでいいんだ」という「安心」を胸に、心から笑って生きてもらえるように…。
小林 裕彰(こばやし ひろあき)

私の物語は、ここで終わりです。
次は、恵比寿であなたの物語を聞かせてください。
セミナー終了後、あなたの不安を安心に変える約束をします。